大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和61年(特わ)1847号 判決

主文

被告人を懲役三年六月に処する。

未決勾留日数中二〇〇日を右刑に算入する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

第一  犯行に至る経緯

一  被告人の経歴等

被告人は、昭和二三年三月東京大学法学部を卒業し、昭和二五年四月検事となったが、昭和三八年三月退官して同年四月弁護士となり、昭和三九年ころから株式会社平和相互銀行(以下「平和相銀」という。)及びその関連企業(以下「平和相銀グループ」という。)の各種法律問題の処理に当たるようになり、昭和四五年一二月に平和相銀顧問、昭和四七年一二月から昭和五二年六月まで株式会社太平洋クラブ監査役、昭和五二年六月から昭和六一年二月まで平和相銀監査役の各役職に在ったほか、平和相銀、太平洋クラブその他の関連企業数社の顧問弁護士(その法律事務所は、昭和五六年以来、東京都千代田区内幸町二丁目二番富国生命ビル一三階)ともなっていた。

二  平和相銀の沿革、概要及び被告人の同銀行における地位

1  沿革及び概要

平和相銀は、K1が昭和一四年に設立した東北林業株式会社を前身とし、これが日本殖産株式会社、平和貯蓄殖産無尽株式会社と順次商号を変更し、昭和二六年一〇月相互銀行法の施行に伴い株式会社平和相互銀行となったものであり、その後、東京住宅無尽株式会社、福徳信用組合を順次吸収合併するなどして規模を拡大し、昭和六一年三月三一日現在、本店を東京都港区新橋五丁目一番二号に置き、資本金三一億八〇〇五万九〇〇〇円、店舗数一〇一か店、従業員数三二五一名を擁し、その資金量は約一兆〇二一六億円、融資量は約九七六〇億円であった。

K1は、昭和五四年六月に死亡するまで、平和相銀のオーナーとして夜間営業、駅前店舗網等の特色ある経営方式を打ち出して平和相銀を全国有数の相互銀行に発展させたが、他方、平和コングロマリット論、「融資より投資」といった独特の着想から、ワンマン的にK一族らが支配する太平洋クラブ等の関連企業を次々と設立し、これら関連企業に正規の融資手続や基準を無視した放漫な融資を継続して不良債権を膨張させてきた。そのため、平和相銀は、昭和五四年に決算や主要人事について大蔵省の承認を要する決算承認銀行に指定されるとともに、大蔵検査や日銀考査において再三その融資姿勢の厳正化、融資体制の改善強化と与信構造の是正、太平洋クラブ等関連企業への大口融資の排除等を指導されてきた。それにもかかわらず、平和相銀では、不良債権を減少させることができなかったばかりか、依然としてこれら大蔵検査や日銀考査に備えて融資事務担当者が上司の指示、容認の下に関係書類を改ざん、ねつ造するなどして不正融資、不良債権の実態を隠ぺいしていたが、同銀行は、昭和六〇年八月、大蔵検査において、分類資産(資産内容が不良なものの総称)が貸出金の五〇パーセントを超えていると指摘され、ついに昭和六一年三月期決算で二八億六〇〇〇万円にのぼる損失を計上して無配となり、同年一〇月一日株式会社住友銀行に吸収合併された。

2  被告人の平和相銀における台頭

被告人は、事件処理や法的なアドバイスを通じてK1のほか、平和相銀及びその関連企業の幹部らからその能力と手腕を高く評価され、前記一のとおり平和相銀グループ内での役職に就き、厚遇を得ていたが、殊に、K1が昭和五二年ころからヂーゼル機器株の仕手戦を試み、株価暴落により平和相銀グループに対し数百億円規模の損害を与えかねない危機を生じさせたいわゆるヂーゼル機器問題について、K1からその処理を一任され、K1の死後ではあったが、昭和五五年二月ころ、買い占めていた株式を大手企業に処分して平和相銀グループの損害を最小限にとどめ、「平和の奇跡」と評されたほど鮮やかな解決をもたらしたため、平和相銀グループ内での被告人への信頼と尊敬は一層高まり、被告人の発言力は重みを増していった。

3  K一族内部の対立と被告人及びM、N、Oら四人による平和相銀の経営

K1が昭和五四年六月に死亡した後、K一族の内部でその後後継者等の問題をめぐり、K1の未亡人K2、K1の次女の夫であるK3及びK1の長男で平和相銀の取締役であったK5のグループと、K1の弟で平和相銀の社長であったK4及びK1の長女の夫で副社長であったLのグループとの対立が起きた。

被告人は、当時の副社長M、専務取締役N及び常務取締役OらとともにK2及びK5らの側に付き、K5を将来社長にする伏線として、昭和五四年一〇月、Lを太平洋クラブの社長へ転出させ、昭和五五年五月、K4を前記ヂーゼル機器株問題に関連した責任を問うことにより代表権のない会長に就かせて同人らを平和相銀の中枢から排除し、代わってMが平和相銀の社長に就任し、被告人及びM、N、Oの四人は、一枚岩の結束で平和相銀の経営にあたり、オーナー側のK5、K3らとともに月一回程度会食をしながら、平和相銀の幹部人事、関連会社問題、大蔵検査や日銀考査対策等重要事項を話し合って方針を決めるようになった。

右四人の中でも被告人は、K1という強力な指導者を失った平和相銀グループ内で、前記のような経緯から発言力、指導力を発揮していたので、M以下平和相銀及び太平洋クラブ等の幹部らは、個々の法律問題のみならず経営全般につき困難な問題が起きる度に、被告人に相談を持ち込んでその判断を仰ぎ、あるいは被告人にその処理を一任するなどして依存する態勢になっていた。

三  平和相銀の融資手続

1  融資手続の概要

平和相銀の融資事務取扱要領によれば、平和相銀における融資手続の概要は以下のとおりであった。すなわち、営業店(本店の営業部及び営業融資部並びに各支店)に融資の申込みがあった場合には、営業店において、顧客から申込金額、資金使途、返済方法、業況、担保の内容等を聴取して申込みを受理するか否かを検討する。受理を決定したときは、融資申込書、資金使途明細書、事業計画書、返済計画書、担保物件明細書、顧客の資格、能力の確認資料等を徴求し、これらを検討するとともに、担当者が直接顧客の所へ赴いて信用状態、融資金の使途、返済能力、担保等を調査する。これらに基づき、当該融資が営業店の決裁権限内の案件であれば、店内で融資りん議書を作成してりん議の上、営業店長が審査決裁し、これを超える場合には、一件書類に融資取扱意見書を付して本部へ送り、貸出金額に応じて、次に述べる各業務組織において審査決裁の上、判決通知書を当該営業店へ送付し、これに基づいて融資が実行される。

2  融資関連の業務組織

(一) 社長及び融資担当常務取締役

社長は、貸出金代行決裁内規により、昭和五五年七月一日から昭和五九年七月一日までは八億円以下の貸出金につき、融資担当常務取締役は、同内規により、昭和五一年一二月六日から昭和五九年七月一日までは五億円以下の、同月二日以降は八億円以下の貸出金につき、それぞれ決裁することとされていた。

なお、Mは、昭和五五年五月から昭和六〇年一二月まで代表取締役社長として、Nは、昭和五六年七月から昭和六一年二月まで融資担当役員(昭和五六年一二月までは融資担当専務取締役、同月以降は降格により融資担当常務取締役)として融資業務を統括していた。

(二) 常務会

常務会は、常務会規程によれば、社長、副社長、専務取締役及び常務取締役をもって構成され、経営に関する重要な事項を協議決定し、業務執行の全般的統制を行うとされており、融資業務については、貸出金代行決裁内規により、昭和五五年四月一日から昭和五九年七月一日までは貸出審議会での融資に関する特に重要な案件につき、同月二日以降は一五億円を超える貸出金につき、それぞれ審議決定することとされていた。

(三) 貸出審議会

貸出審議会は、貸出審議会規程によれば、昭和五七年一〇月一日から昭和五九年七月一日までは委員長である社長及び社長の任命する委員をもって、同月二日以降は委員長である融資担当常務取締役及び審査部など八部の部長が委員となって構成されており、融資業務については、貸出金代行決裁内規により、昭和五一年一二月六日以降は八億円を超える貸出金につき審議決定することとされていた。

(四) 審査部

審査部は、昭和五七年一〇月一日以降従前の融資部から審査部と名称を変更されたものであり、社則によれば、融資の審査に関すること、信用調査に関すること、不動産調査に関することなどの業務を分掌し、部長、次長、審査役らが置かれ、融資業務については、貸出金代行決裁内規により、部長は三億円以下の貸出金につき、次長は二億円以下の貸出金につき、それぞれ決裁することとされていた。

なお、審査部部長には、昭和五七年一〇月から昭和六一年二月までAが、同部副部長には、昭和五七年一〇月から昭和五八年四月までBが、昭和五九年四月からY(同人は昭和五八年四月から同部次長であった。)が、それぞれ就任していた。

(五) 営業融資第一部、第二部、第三部

営業融資第一部、第二部及び第三部は、昭和五八年四月に、事務量の増大に伴ない第一部、第二部の二部制から第一部が第一部と第二部に分割され、従前の第二部が第三部に名称を変更され三部制となったものであり、社則によれば、融資の申込受付、調査、融資の実行等の融資に関する業務のみを分掌し、部長、次長、課長、課長代理、融資役らが置かれ、K一族の支配する太平洋クラブ、総武都市開発株式会社及び総武通商株式会社等に対する融資業務は、三部制になった後の営業融資第二部に集中していた。

なお、営業融資第一部部長には、昭和五六年一〇月から昭和五八年三月までCが、昭和五八年四月から昭和六一年二月までBが、営業融資第二部部長には、昭和五七年四月から昭和五八年三月までD(事務取扱いであった。)が、昭和五八年四月から昭和六一年二月までE(同人は昭和五六年一〇月から昭和五八年三月まで営業融資第一部次長であった。)が、営業融資第三部部長には昭和五八年四月から昭和六一年二月までDが、それぞれ就任していた。

(六) 月曜会

平和相銀の正規の業務組織ではないが、昭和五六年ころから、月曜会と称せられる会合において、重要な融資案件等が話し合われ、そこで事実上その方向付けが決せられることもあった。この会には、融資担当役員のN、審査部長、営業融資各部の部、次長らのほか、昭和五五年六月に前記ヂーゼル機器問題に関連して責任を問われ融資担当常務取締役から非常勤取締役に降格されながら従前どおり常勤して融資業務を担当していたOも出席した。同人の意見は、同人が従前からの関連企業への融資案件に精通しており、また、常々これらの問題について被告人と親しく相談していたこともあって、月曜会の席上で重視されていた。

3  融資の一般的原則

平和相銀の融資事務取扱要領によれば、融資は、その資金使途が社会的に有意義な事業の運営上必要で公共性を有すること、融資先企業が成長性を有すると同時に平和相銀の成長にも貢献すること、融資が平和相銀の収益性と自己資本の充実に寄与すること、融資金の回収が確実かつ安全であることを基本原則とし、信用調査にあたっては、資金の使途、返済能力、信用状態、担保の適否等に重点を置き、担保については、「融資は確実な担保または保証人を徴して取扱う」とする担保原則を定め、これを受けて担保物件の評価査定は時価の七〇パーセント以下とし、確実な回収を図るため、処分、評価の容易であることが特に重視され、市街化調整区域内の物件等土地利用の制限のあるものは不適当とされ、手続の安全性及び事後管理については、「融資手続にあたって回収に万全を期し事後において回収に対する懸念または紛糾の余地を残さないようにするとともに融資後の管理を厳重に行なわなければならない」とされていた。

4  信用供与限度額

相互銀行法等により、同一人に対する信用供与限度額が定められており、平和相銀においては、昭和五七年三月期基準で六八億九五○四万円、昭和五八年三月期基準で七四億一九八〇万円、昭和五九年三月期基準で七八億八七二〇万円、昭和六〇年三月期基準で八二億一九〇〇万円が限度であるとされていた。さらに、昭和五五年一二月、大蔵省銀行局長から、各相互銀行の社長に対して、融資の名義が異なっていても、故意に名義を分割するなど融資使途等からみて実質的に同一人に対する融資と認められるものについては、これを合算して取り扱う旨の通達による指導がなされていた。

四  株式会社広洋及び株式会社サン・グリーンに対する三回にわたる融資

1  関係会社の概要

(一) 株式会社広洋

株式会社広洋は、Fによって昭和五六年四月一一日建設綜合請負業、不動産の売買と仲介業等を目的として設立され、資本金は二〇〇〇万円、本店は大阪市東淀川区〈住所省略〉に置かれているが、専従の従業員は不在に等しく、本件融資のきっかけとなった兵庫県神戸市北区八多町屏風字登り尾所在の地番一四五〇番地の山林ほか一一〇筆の土地、公簿面積合計約一九六万五八〇四平方メートル(約五九万五七〇〇坪)(以下「屏風物件」という。)を取得するまでは格別の資産も事業実績もなかった。

(二) 株式会社サン・グリーン

株式会社サン・グリーンは、Gによって昭和五一年二月二三日建設工事の設計施行及び監理業務、貸植木、園芸資材販売業務等を目的として設立され、資本金は二〇〇〇万円、本店は兵庫県尼崎市〈住所省略〉に置かれているが、従業員は一〇名程度で、資産や営業利益も少ない。

(三) 株式会社太平洋クラブ

株式会社太平洋クラブは、K1によって昭和四六年五月二〇日レジャー施設の建設、経営等を目的として設立され、昭和五七年当時、資本金は一〇億円、本店は平和相銀本店に隣接した東京都港区〈住所省略〉に置かれ、ゴルフ場一〇コース余、スキー場二か所を有していた。

太平洋クラブは、平和相銀と同じくK一族等がオーナーで、その設立及び右各施設を利用する会員制総合レジャークラブの会員募集に当たっては、平和相銀から多くの行員が出向し、平和相銀が積極的に会員募集の窓口となり、入会に必要な資金についてローンを提供するなどしており、また、被告人は定款や会則の作成等準備作業に関わった。

太平洋クラブが設立や施設用地の買収等に要した多額の資金については、平和相銀がほとんど全面的に太平洋クラブ及びその子会社等(以下「太平洋クラブグループ」という。)に融資していたが、昭和四七、八年ころのいわゆるオイルショックによる影響、各自治体による開発規制の強化等のため、多くの買収地が開発できないまま遊休資産化し、利息の追い貸し等で融資は一層膨張し、太平洋クラブグループに対する融資総額は、昭和五七年末で約七八三億円、昭和五八年末で約九〇六億円、昭和五九年末で約九二三億円、昭和六〇年末には約一〇三五億円に達し、大蔵省や日本銀行からこれらの融資を抑制し、融資金を早期に回収するべきであると厳しく指摘されていた。

太平洋クラブと平和相銀とは、右のように極めて密接な関係にあったが、平和相銀は太平洋クラブへ出資をしておらず、平和相銀の太平洋クラブに対する支援協力関係もそれぞれの経営陣やオーナーの間の親疎によって異なっていた。

なお、昭和五九年六月まで太平洋クラブの財務等を担当していた常務取締役Hは、太平洋クラブの役員の中では被告人と懇意な関係にあり密接な連絡を取り合っていた。

(四) 新日興開発株式会社

新日興開発株式会社は、株式会社曲カ村川商事の子会社として昭和四八年一〇月一五日不動産の売買及び斡旋、土地建物の管理等を目的として設立され、資本金は一〇〇〇万円、本店は札幌市東区〈住所省略〉に置かれ、昭和五四年九月以降はIが代表取締役に就任していたが、昭和五五年ころから休業状態になっており、宅地建物取引業の免許も昭和五七年一一月一七日をもって失効した。

2  広洋及びサン・グリーンに対する第一回融資に至る経緯

(一) 太平洋クラブによる屏風物件の取得とその遊休資産化

屏風物件の大部分は、総武都市開発が、昭和四七年九月二〇日、株式会社大林組及び三井建設株式会社から、ゴルフ場を開発した上で太平洋クラブへ譲渡する目的のもとに代金約一九億円で購入し、これに一部土地を買い増しただけで未開発のまま太平洋クラブに買取りを要請し、これを太平洋クラブが、昭和五六年三月三一日、代金三三億五〇〇〇万円で購入したものである。その際、太平洋クラブは、総武都市開発が立て替えてきた固定資産税等約三億円を同社に支払ったため、屏風物件の太平洋クラブにおける簿価は約三六億五〇〇〇万円とされていた。

太平洋クラブでは、屏風物件を取得したものの、同所が市街化調整区域に区分されていたこと、高低差が激しい地形で開発するには過大な工費を要すること、すでに神戸地区に太平洋クラブの六甲コースが完成しており早急にゴルフ場を増設する必要が失われていたことなどから開発の目途がたたず、売却処分も難しいものとして同物件は遊休資産化し、昭和五七年当時、太平洋クラブや平和相銀内では同物件の価格を四〇億円前後と評価していた。

(二) 太平洋クラブの会員権預り保証金償還問題とその対策

太平洋クラブは、当初、会員は広く太平洋地域の国々に建設されたゴルフ場等の大規模なレジャー施設一〇〇か所をすべて利用でき、会員権は投資として有利であるなどと大々的に宣伝して会員を募集し、昭和四八年三月以降縁故会員から四三〇万円、昭和四八年四月以降第一次募集会員から四八〇万円、昭和五〇年二月以降第二次募集会員から六五〇万円の預り保証金をそれぞれ受領して市場で流通可能な会員権を発行し、措置期間一〇年経過後は希望により退会する会員には右預り保証金の償還に応じることとしていた。なお、最初の償還期が到来する昭和五八年三月時点での会員権発行数は、縁故会員一万五八四八口、一次会員五一六七口、二次会員一〇八六口で、合計二万二一○一口であった。

しかし、前記のとおりその買収用地の多くが開発できないまま遊休資産化し、特に会員が集中していた首都圏のゴルフ場が不足していたこともあって、その会員権の相場価格は昭和五三年ころには二〇〇万円台の前半を低迷しており、施設の不備等を理由に太平洋クラブへ入会金及び預り保証金等を返還してほしいと請求してくる会員も少なくなかったため、太平洋クラブでは、会員権の相場がこのまま低迷を続ければ、昭和五八年三月から順次始まる償還期には預り保証金の償還を求める会員が殺到するのではないかとの危機感を抱き、昭和五六年九月当時には、償還及び新規コース開発財源として二五〇億円を償還期までの調達目標として検討していた。

その対策として、太平洋クラブでは平和相銀とも協議して、市場に出回る会員権を太平洋クラブグループに属する会社を通じ高めに買い上げて高値に会員権相場づくりをする(以下「サルベージ工作」という。)とともに、首都圏付近にゴルフ場の開設を進めて会員権相場の上昇を図る一方、遊休化している太平洋クラブグループ所有の不動産を売却すること、手付金、貸付金を回収することなどにより償還財源を調達することとした。

右対策のうち施設拡充や遊休不動産の売却はわずかに進展したのみであったが、サルベージ工作は、折からの第二次ゴルフブームの気配も手伝って会員権相場を継続的に上昇させることに成功し、相場価格は昭和五七年一月には三八〇万円から三九○万円、同年七月には四○○万円から四○五万円、同年一〇月には四二〇万円から四二五万円、同年一一月には会員数の最も多い縁故会員からの預り保証金額に見合う四三〇万円から四三五万円に達していたため、そのころには平和相銀及び太平洋クラブ関係者の間では償還期が到来しても償還請求が殺到する事態は避けられるものと予想されていた。

現実にも、償還期の始まる昭和五八年三月には相場価格が第一次会員からの預り保証金額をも上回る五〇〇万円から五〇五万円になっていたため、預り保証金の償還請求は昭和五八年三月に二件八六〇万円、同年四月から昭和五九年三月までの一年間で合計三五九件一六億四二二〇万円にとどまった。

(三) 被告人による屏風物件売却の推進

昭和五七年春ころ、JがLの後の太平洋クラブ社長に就任した機会に、平和相銀側からJとつながりの深い被告人、M、N、Oら、太平洋クラブ側からJ、専務取締役P、Hらが集まったが、その席上で償還問題が話題にのぼり、被告人は太平洋クラブ側から遊休不動産の売却について協力を求められた。そこで、被告人は、従来から平和相銀グループの問題処理に協力を得ていたQを介し、かねて面識のあった日本青年連盟の主宰者Rに対し、市街化調整区域内にあって処分の難しいものであるが屏風物件を六〇億円程度で売却できる先を捜してくれるよう依頼した。Rは、さらにこれを京都において不動産業を営むSに依頼し、Sは知人の紹介で知り合ったFと売買交渉に入った。

被告人は、昭和五七年七月一日と九月一〇日に都内でR、S、Qと会合を持ち、一〇月二一日にホテルオークラで右三人のほかF及びその知人のTを交えて会食したころまでには、同人らと被告人との間においては屏風物件をFの経営する広洋に売却し、その売買代金六〇億円と開発資金二〇億円を平和相銀から広洋へ融資するという一応の合意に達していた。

なお、屏風物件については、太平洋クラブの取締役開発部長Uも売却先を見つけその本格的な交渉に入ろうとしていたが、被告人が、昭和五七年六、七月ころ、同人に対して、自分の方で有力な売却先と話を進めている旨述べたため、Uは右交渉を断念した。

(四) 第一回不正融資の共謀

昭和五七年一〇月中旬ころ、被告人は、O及びHに対し、それぞれ屏風物件が平和相銀からの全額融資付きの条件で売却できる見込みであることを話し、この件は、OからM、審査部部長A、営業融資第一部部長Cらに伝えられ、HからJに伝えられた。そこで、JはHとともに、そのころ平和相銀を訪ねNに対し、被告人が屏風物件売却の話をまとめたが売却先への融資が必要なので協力を得たい旨依頼し、Nは、そのころこれをMに伝え、さらにA、C、営業融資第一部次長Eらにも伝えて融資に関する所用調査を指示した。

なお、同月二八日、太平洋クラブでは、詳細は後日確定するという条件付きながら、取締役会においてとりあえず屏風物件の売却が承認されている。

昭和五七年一一月四日、被告人は、融資に関する現地調査をするC、E及び営業融資第一部融資役Vのほか、H、Qとともに大阪の広洋の事務所に赴き、H、Cらを買主側に引き合わせた。その席上には、買主として広洋のFのほか、広洋一社では前記の信用供与限度額を超えることになるので名義上の融資先兼共同購入者として加わることとなったサン・グリーンの社長Gとその兄T、仲介に入ったSらも出席しており、Fは、屏風物件はせいぜい四〇億円であるところを六〇億円で購入するのだから融資の点はよろしく頼む、登記簿上は約六〇万坪であるがいわゆる縄延びがあって実際の面積は約八〇万坪くらいあるということだから、広洋としてはゴルフ場と宅地に開発する意向である、宅地開発の許認可は間違いなく取れるなどと話した。

同日昼食後、被告人はQ及びHとともに帰京し、C、E及びVが残ってFらから事情聴取をした結果、広洋及びサン・グリーンはいずれもさほどの実績も資産もない小規模な会社であること、屏風物件についてはまだおおよその事業計画書もできていないこと、宅地開発の許認可についてFらは所属の同和団体の力によって取得できると言っているに過ぎないこと、売買代金六〇億円及び一括二〇億円の開発資金の融資に加えて、返済期限を一応三年とするが三年後にまた見直すことにしてその間の利息の融資も要望していること、しかも担保としては購入する屏風物件以外にはないことが判明した。Cらは、これらの調査結果からこの融資は避けるべきであると判断したが、上司から調査を指示された案件であり、もともと屏風物件の売却は被告人が尽力してまとめた話であることから、Fらに対し、一応検討するとの返答をし、融資申込書等の書類を手渡し、融資申込みの手続を説明しておいた。

同月八日、C及びEは、平和相銀六階会議室において、N、O、A、審査部副部長Bらに右出張調査の結果を報告した。出席者は、一様に、本件融資においては担保が大幅に不足すること、事業計画書が未だできておらず、開発費名目で融資する資金の使途が不明確であること、広洋等が小規模で実績もあまりなく、金利まで融資しなければならないこと、許認可を取れる見通しも難しいことなど問題が多すぎるから、融資すべきではないとの意見であったが、被告人がその人脈でまとめた案件なので、被告人の意見を聞いて決めることにし、同日と翌九日の間に、C及びOがそれぞれ被告人の法律事務所へ赴き、被告人に対し前記融資の問題点を挙げるなどして融資の可否を問うたところ、被告人は、Fらの同和団体の力を強調して、融資実行を示唆した。また、同日ころ、被告人の法律事務所を別の用件で訪れたAに対しても、被告人は大丈夫として右融資を勧めた。

同月一一日、Oは、前記会議室において、N、C、E、A、Bらに対し、被告人の右意向を伝え、いろいろ問題のある案件ではあるが、被告人がまとめた話であるからこの際我々はみこしを担ごうと発言し、その結果、Nらも融資やむなしと考えるに至った。同日ころ、平和相銀社長室でNから右融資の主要な事項と問題点について報告を受けたMも、Nに審議会への上程を指示して融資実行を了承し、ここに被告人、M、N、O、A、C及びEの間で本件第一回不正融資に関する順次共謀が成立した。

なお、それまでの間に、被告人は、Qを介してSから裏金で二億円の仲介手数料を要求されていたので、その捻出方策についてH及びかねて平和相銀や太平洋クラブの債権処理に協力を得るなど親交のあったIとそれぞれ打ち合わせた。その当時、被告人は、実兄で札幌テレビ放送株式会社(以下「札幌テレビ」という。)の副社長であったW1とIの間のゴルフ練習場をめぐるトラブル(詳細は、後記第四の三)を沈静化させる必要があったので、Sに対する裏金の二億円の処理とIの怒りを静めるための代償を同時に解決するべく、太平洋クラブが得る売買代金の内から何ら実質的な仲介をしていないI経営の新日興開発へ仲介手数料名目で三億六〇〇〇万円を支払い、その内の二億円をSに渡し、残りの一億六〇〇〇万円を新日興開発に利得させることにした。被告人は、この手数料支払については、M、N、Oらには一切相談していなかった。

かくして、前記共謀に基づき、昭和五七年一一月一二日に貸出審議会で審議決定の上、同月一七日、屏風物件を太平洋クラブから広洋及びサン・グリーンに売り渡す契約の成立を受けて、右両社に対し、売買代金六〇億円に開発申請諸経費名目の二〇億円及び一年分の利息(年率八・五パーセント)八億円を加えた合計八八億円(一社当たり各四四億円)の融資が実行された。担保としては、屏風物件に極度額合計一〇六億円(一社当たり各五三億円)の根抵当権を設定させ、広洋の債務につきF及びサン・グリーンを、サン・グリーンの債務につきG及び広洋をそれぞれ連帯保証人に徴した。

3  広洋及びサン・グリーンに対する第二回融資

(一) 第二回融資に至る経緯

Fは、屏風物件購入後まもなく、株式会社蔵建築設計事務所に屏風物件の測量及び宅地造成についての設計を依頼するとともに、昭和五八年二月には蔵建築設計事務所を介し、同年三月にはTを介して神戸市の宅地規制課や都市計画課等へ屏風物件の宅地開発の可能性を打診したが、担当係官から神戸市では市街化調整区域内での宅地開発は認めていないし、事前相談にも応じられない旨の返答を受け、提出しようとした屏風物件の宅地開発申出書も受理されず門前払いとなり、その後は神戸市に対し宅地開発許可に関して何らの働きかけも行わなかった。同年六月には、測量の結果、屏風物件の実際の面積は縄延びどころか公簿面積の約五九万五七〇〇坪より約二万坪少ないことも判明したため、Fは、当初の開発計画を断念し、さらに、開発費目的で融資を受けた二〇億円についても、Sに仲介料として四億円、蔵建築設計事務所に測量費として一億一〇〇〇万円を支払ったほかは、Fの個人的用途等に当てたが、平和相銀では右の開発準備状況や融資金の使途についてほとんど把握していなかった。

(二) 第二回不正融資の共謀

昭和五八年一一月中旬ころ、F及びTは、広洋及びサン・グリーンの運転資金に窮していたところから、二年目の金利の融資を受ける際に、四億円程度(一社当たり各二億円)を上乗せして融資を受けようと考え、平和相銀を訪れて、営業融資第二部長E、同部次長X及び同部課長Vに対して二社合計一二億円の融資と利率の引下げを申し込んだ。Eらは、Fらから事情を聴取し、利息の融資及び利率を八パーセントに下げることについては応じられる態度を示したが、右四億円の上乗せ分については、Fが進入路買収の対策資金というのみでそれ以上の具体的使途を言明しなかったこと、担保の追加も全く期待できないこと、事業についても特段進捗した形跡がうかがわれないことなどから、上乗せ分の融資は困難と思うが上司に伝えて検討する旨返答した。

同日か翌日ころ、Eは、N、O、A、審査部次長YらにFの右申込みを報告し、一同で協議したが、利息以外の融資はすべきでないので上乗せ分については被告人からFに断わってもらおうとの結論になり、E及びOが、それぞれ被告人の法律事務所を訪れて、被告人に対しFへの交渉を依頼し、被告人の了承を得た。

しかし、同月下旬にも、F及びTが平和相銀を訪れ、Eらに一二億円の融資を催促し、Eらの力では断わりきれない相手であったので、とりあえず、広洋及びサン・グリーンに対する合計一二億円の融資案が同月三〇日の貸出審議会に減額の可能性があるとの条件付きで上程され、いったん承認された。

一方、被告人は、前記Eらの依頼を受けてQに指示し、Fに四億円の上乗せ融資の申込みについては遠慮されたい旨交渉した。

同年一二月初め、FはEに対し、どうしても一社当たり二〇〇〇万円程度は対策資金にかかるとして一社につき金利込みで四億一〇〇〇万円の融資を強く要請した。

同日、Eは、平和相銀六階会議室において、N、O、A、Yらに右Fからの減額になった要望を報告し、一同は、回収の見通しは立たないものの、利息分については第一回の融資の際に基本的には合意されていたところであるし、上乗せ分についても被告人に依頼して一社当たり二億円の要請が二〇〇〇万円に減額されたのでやむを得ないと判断し、同日ころ、被告人も、自己の法律事務所において、OからFの要求が減額されたこと等の報告を受け、Oにその程度の融資はやむを得ないとの意向を示した。そのころ、平和相銀社長室において、Nから以上の経緯の報告を受けたMも、この融資実行を了承し、ここに被告人、M、N、O、A及びEの間で第二回不正融資に関する順次共謀が成立した。

右共謀に基づき、同月初め、貸出審議会の各メンバーが持ち回りの形で、先になされた一一月三〇日付けの一二億円(一社当たり各六億円)の融資に対する貸出審議会の決裁を八億二〇〇〇万円(一社当たり各四億一〇〇〇万円)に差し替えることにして本件融資を了承し、同年一二月六日、広洋及びサン・グリーンに対し合計八億二〇〇〇万円の融資が実行された。担保としては、屏風物件に設定されていた根抵当権の極度額を合計一一六億円に変更させ、第一回同様の連帯保証人を徴した。

4  広洋及びサン・グリーンに対する第三回融資

(一) 屏風物権をめぐる紛争と和解合意書の作成

Fは、前記のとおり屏風物件には期待していた縄延びがないことから屏風物件単独の開発を断念し、これに隣接する名鉄不動産株式会社所有の約一二〇万坪の土地(以下「名鉄物件」という。)と合わせ開発する方途を探っていたが、これには更に膨大な資金が必要となるので、太平洋クラブのHに、売買交渉当時の話と面積が違っていることや進入路幅の不足等につき激しくクレームをつけ、その過程で屏風物件を二四〇億円で買い戻せなどと要求するようになった。その処理に窮したHから相談を受けた被告人は、QにFとの交渉を依頼し、その後は主にQが被告人、H、Eらに経過を報告しながら交渉に当たっていた。

昭和五九年秋ころには、Fは太平洋クラブのみならず平和相銀まで巻き込んで二四〇億円の融資を要求するに至り、同年一二月二八日、平和相銀に太平洋クラブからHのほか社長J、専務、常務ら幹部、平和相銀からN、O、A、C、審査部副部長Y、E、X、Vらが集まった会合で、HがそれまでのFとQ及びHの交渉経過を報告をした上、Fが提示してきた和解合意書案を説明して銀行の協力を求めた。これについて、平和相銀からの出席者は、全員、平和相銀は単にFらに融資をしただけであるとの立場から、売主である太平洋クラブと連名で責任を問われることに反対したが、Hが泣かんばかりに窮状を訴えたので、結局、Nがその場から被告人に電話をし、改めて問題の処理を一任した。

翌二九日、Hが、和解合意書を持って被告人を訪ね、意見を求めたところ、被告人は、Hに対して、これまでの経緯から紛争を解決するのであれば和解合意書に調印せざるを得ないとの考えを示した。

同月三一日、平和相銀では、N、O、A、Y、Eらが集まり、Hから届けられた同日付け和解合意書を検討した結果、三項に「甲(平和相銀及び太平洋クラブ)は屏風の土地の開発建設計画に付て誠心誠意、全面的に協力すること」との文言があったため、これでは際限なくFからの融資要求に応じなければならなくなるのではないかとの不安を感じ、E及びYが、同日、被告人の法律事務所を訪れて判断を求めたところ、被告人は、公序良俗に反するような融資要求には応じなくともよいと言って、紛争解決のためには平和相銀がその和解合意書に署名することを勧めた。

昭和六〇年一月四日、被告人は、Hから早く調印してほしいと要望され、Mのもとへ赴いて平和相銀の代表印を押なつするよう依頼したが、Mはそれまでに銀行の社長がFとの和解合意書に代表印を押すようなことは避けるべきである旨N、Oとも協議していたので、これを拒否した。そこで、被告人は、同日、Mらの了承のもとに、自ら和解合意書に平和相銀代理人弁護士として署名押印し、Qを介して、同月上旬ころ、これをFに届けた。

(二) 第三回不正融資の共謀

F及びTは、昭和六〇年一月二三日、平和相銀を訪れ、Eらに対して、隣接の名鉄物件も合わせて開発するために三〇〇億円を融資してほしいとか、とりあえずこれまでに融資を受けた分を含めて一五〇億円の融資枠を設定し、あと五四億円融資してほしいなどと法外な要求をし、同年四月一八日にも、E、営業融資第二部次長Z及び同部課長甲に対し、名鉄物件を含めた開発のため広洋及びサン・グリーンに合計二〇億円(金利を除き手取り一五億円)の融資を五月の連休前までに実行するよう強く申し入れた。

翌一九日、Eらは、これをN、O、A、Yらに報告したが、一同は、右開発計画は事業規模が莫大で内容も粗雑であったこと、担保の追加も無理なこと、融資金の使途も工作費用というのみで具体的でなく、はたしていかなる使途に用いられるのか不明であったことから、到底応じられないとの結論で一致し、同日、O、A、Eらが、太平洋クラブビル内六階の被告人の専用室において、被告人に対し、Fのこの融資要求には応じられないので断わってほしい旨依頼した。

同年五月二七日、Fはまたも平和相銀を訪れ、Eらに対して、前月要求した融資についてはもはや猶予できない、明日また来るなどと強く迫った。

翌二八日、Eは、平和相銀六階会議室で、N、O、A、YらにFの態度からもはやこの問題を先送りにはできないと報告した。一同は、Fへの融資は大幅な担保不足であり、屏風物件の宅地開発許認可の取れる見通しすらたっておらず、これまでに何ら事業の進展もなく、これまでの融資金の使途も不明確であることなどから、融資には消極であった。なお、このころまでに提示されていたFの言う屏風物件に名鉄物件を合わせた東神ニュータウン開発計画にしても、被告人がQをして調査させた仮称北神戸宅地造成事業基本計画にしても、これらは総額約七〇○億円とか約二○○○億円という膨大なプロジェクトであり、詳細な検討をするまでもなく実現性に乏しく、平和相銀が広洋等に対する融資の対象として真剣に考慮するような事業ではなかった。

しかし、この当時の被告人及びM、N、Oら平和相銀経営陣とK5ら小宮山家の関係は、前記二3のとおりM社長体制が発足した当初は親密であったものが前記和解合意書に対するK5の不満等から次第に対立が表面化した状態となり、昭和六〇年三月ころから、右平和相銀経営陣は同銀行常務取締役であったK5を非常勤取締役に降格させ、K5側はその所有する同銀行の株式を川崎定徳株式会社社長丙に売却するなど双方で種々の法的対抗措置を尽くして紛争状態にあり、折から、同銀行の株主総会を翌月に控えていたこの時期に、広洋等に対するこれまでの巨額の不正融資がこれ以上表ざたになれば、経営陣の責任問題に発展するおそれがあったため、Nらは被告人の最終的な判断を仰ぐこととした。

そこで、同日、O及びEは、被告人の法律事務所に赴き、以上の経過を話して判断を求めたところ、被告人もOらに今回限りとして融資を実行し騒ぎが起きないように処理した方がよい旨示唆した。そこで、Oらは、平和相銀に戻ってN及びAに被告人の右意向を伝え、NはMに右経過を報告し、Mも融資実行を了承して貸出審議会への上程を指示し、ここに被告人、M、N、O、F、A及びEの間で第三回不正融資に関する順次共謀が成立した。

右共謀に基づき、昭和六〇年五月三一日に貸出審議会の決裁及び常務会の承認がなされ、同年六月一日、広洋及びサン・グリーンに対し合計二〇億円(一社当たり各一〇億円)の融資が実行された。担保としては屏風物件に設定されていた根抵当権の極度額を合計一四〇億円に変更させ、第一回同様の連帯保証人を徴した。

五  株式会社コンサルティング・フォーラムに対する融資

1  関係会社の概要

(一) 株式会社コンサルティング・フォーラム

株式会社コンサルティング・フォーラム(以下「フォーラム」という。)は、被告人によって昭和五七年一二月一八日企業経営に関するコンサルティング、企業診断、不動産の売買等を目的として設立され、資本金は一二五〇万円、本店は東京都千代田区紀尾井町〈住所省略〉に置かれ、代表取締役には、昭和五九年一月二五日までは丁、同日以降は戊が就任していた。

被告人は、立教大学教授田中一郎の協力を得て平和相銀の関連企業や貸付先で問題のある会社の活性化を図り、ひいては平和相銀の建て直しに役立てようとフォーラムを設立したものであり、資本金一二五〇万円を後記上野ビスタビルデング株式会社から借用してこれに当て、秘書の乙川二郎を補助者として資金面を担当し、コンサルティング業務には田中を中心としたグループを当てて同社をスタートさせた。しかし、事務所の賃料、人件費等に多額の出費を余儀なくされる一方、コンサルティング業務は、昭和五八年六月末に営業方針等の対立から田中グループがフォーラムから引き揚げてしまい、わずかに知人の鈴木三郎や平和相銀からCの応援を得て担当させていたものの、平和相銀関連企業から十分な協力が得られなかったこともあって当初の思惑どおりの収入を上げられず、同年八月ころには、その経営は所期の成果をあげられないまま低迷し、赤字が累積している状態であった。

(二) 上野ビスタビルデング株式会社

上野ビスタビルデング株式会社(以下「上野ビスタ」という。)は、K1によって昭和五二年七月一二日不動産の売買、賃貸借、仲介及び管理等を目的として設立され、資本金は五〇〇〇万円、本店は東京都台東区〈住所省略〉に置かれていた。上野ビスタは、平和相銀等からの借入金により昭和五二年七月二五日、千葉農林株式会社から同区上野四丁目所在の鉄筋コンクリート造り地階付き八階建てのビル(以下「ビスタビル」という。)を代金約二二億五〇〇〇万円で購入し、平和相銀の支店やホテル等として利用することを企図していたが、同ビル内のテナントの立ち退きが難航し、借入金の金利がかさむばかりで同ビルを利用できないまま、N及び平和相銀総務部の指示のもとに、上野ビスタ取締役総務部長山田四郎が同ビルを管理し帳簿を整理するだけの会社となっていた。

(三) 株式会社大野屋

株式会社大野屋は、Iによって昭和五七年一二月一五日不動産売買、賃貸、仲介、管理及び造成、金融業務、食料品、毛皮製品、貴金属の売買、スーパーマーケット管理、経営等を目的として設立され、本店は札幌市中央区〈住所省略〉に置かれ、Iが代表取締役に就任していたが、同社は、平和相銀や太平洋クラブの債権回収手段として利用することなどを意図して設立されたものであり、発起人には被告人及び被告人の長男W2も名を連ね(なお、W2は、昭和五八年九月一日から昭和五九年九月二〇日までIとともに代表取締役に就任した)、資本金五〇〇〇万円は前記広洋及びサン・グリーンに対する第一回不正融資に関して新日興開発に支払われた仲介手数料名義の利益の中から拠出されている。

2  フォーラムへの融資に至る経緯

(一) ビスタビルの売却及びその売却益金のフォーラムへの貸付け

被告人は、ビスタビルのテナント立ち退き問題の折衝にも当たっていたが、同ビルを売却して一挙に問題を解決しようと考え、昭和五七年六月ころから株式会社ヤナギサンドライの代表取締役渡辺五郎と積極的に交渉した結果、同年一〇月八日、ヤナギサンドライにビスタビル及びその土地を代金四〇億六〇〇〇万円で売り渡すことに成功し、上野ビスタに約五億円の売却益金を得させた。

被告人は、右売却益金の中から昭和五七年一二月一七日にフォーラムの資本金に充てるため一二五〇万円を借り入れたほか、フォーラムにおいて同年一二月二五日から昭和五八年七月一日までの間、一一回にわたり、合計三億五五九五万円を借り入れ、その内、昭和五八年三月三一日以降同年六月二五日までに合計二億五七五〇万円をフォーラムから大野屋へ貸し付け、その余はフォーラムの事務所賃借の保証金等の設備資金、運転資金等に充てた。大野屋への貸付けは、同年二、三月ころ、被告人がIに、フォーラムの収入が少なく、月々の経費すら賄えない状況を相談したところ、Iから、当時大野屋で株式会社山サ丸信建材(以下「山サ丸信」という。)の手形を割り引いて利益を得ているので、大野屋へ手形割引資金を回してもらいフォーラムで再割引きをすればその利ざやでフォーラムの経費程度は賄える旨勧められて始めたものであった。なお、昭和五八年八月末時点の上野ビスタからフォーラムへの貸付金残高は三億一五九五万円、フォーラムから大野屋への貸付金残高は二億二九二〇万円、大野屋から山サ丸信への貸付金残高は一億二九二〇万円となっていた。

(二) 上野ビスタの納税資金不足とフォーラムへの返済請求

上野ビスタでは、ビスタビルの売却により大きな利益を計上した結果、昭和五八年八月三一日までに法人税等約三億四三五九万円を納付しなければならなくなった。上野ビスタの山田は、ビスタビル売却益の大半をフォーラムへ貸し付けていたので、右納税期が近づいてきた同年六、七月ころから、フォーラムの乙川や被告人に前記貸付金の返済を催促するようになった。

しかし、フォーラムは、もともと資本金から運転資金まですべて借入金でスタートし、何ら資産はない上、コンサルティング業務や会費からの収入も少なく、事務所を狭い部屋へ移すなど経費を削減する努力をしたものの累積赤字の解消には程遠く、ちょうどそのころから山サ丸信の手形金が支払われなくなり利息金の支払も停止している状態であって、自力で上野ビスタに借入金を返済することは不可能であった。そこで、乙川や被告人がIにフォーラムから大野屋への貸付金の返済を求めたが、Iも山サ丸信からの回収に努力している旨返答するばかりで早期返済の見通しは立たなかった。

同年八月中旬ころ、乙川は山田から納税資金が不足しているのでどうしても一億七〇〇〇万円だけでも返済してほしい旨再三請求を受け、これを被告人に伝えた。

(三) 不正融資に関する共謀

以上のような経緯から、被告人及び乙川は、もはや平和相銀から二億円程度の融資を受けて上野ビスタに返済する以外に方法はないと話し合い、昭和五八年八月中旬ころ、被告人は、その法律事務所において、Oに前記事情を説明して平和相銀からフォーラムへ二億円程度の融資を受けたい旨依頼し、乙川も、太平洋クラブビルにOを訪ねて同様の依頼をした。

Oは、直ちにこれをNに報告し、両者とも、ほかならぬ被告人の依頼であるので前向きに検討することとし、そのころ、Nは、乙川から事情を聴取した上、審査部部長Aに対して被告人からの話であるから前向きの検討をするよう指示し、Oも、Aに対し同様の指示をした。Aは、右指示を営業融資第二部部長Eへ伝え、Eは同部融資役Vに信用調査を指示した。

そのころ、被告人は、一方で、Iから大野屋のフォーラムへの返済が同月末までには不可能であることを確認した上、同人に対して、大野屋への貸付金は上野ビスタからの借入金を回していたものであり、フォーラムは上野ビスタの納税に必要な一億七〇〇〇万円を至急返済しなければならず、大野屋から返済がないのであればフォーラムは平和相銀から金利を含めて二億円くらい借り入れるしかないので、、その担保に供するため一億円くらいの土地を見つけてもらいたい旨依頼した。Iは、これを受けてかねて心当たりのあった北海道石狩郡石狩町花川の土地(以下「石狩物件」という。)を七五〇〇万円で購入する話をまとめ、同月二〇日ころ、被告人の法律事務所において、被告人に一億円で石狩物件を購入できると報告した。その際、被告人とIとの間では、石狩物件をフォーラムが取得して平和相銀に担保に入れ、一年後には大野屋が一億五〇〇〇万円でフォーラムから買い取ってフォーラムに利益を得させる旨を平和相銀に話して融資を依頼することとし、そのころ、被告人は乙川にも同様の指示をした。

そこで、乙川及びIは、平和相銀を訪れ、Vに上野ビスタへの返済資金一億七〇〇〇万円、石狩物件の購入のための手付金二〇〇〇万円及び金利等一〇〇〇万円の合計二億円を同月末までに、さらに石狩物件の残代金八〇〇〇万円を翌九月末までに融資してほしい旨申し込み、担保としては九月末に石狩物件を買収して入れるが、それまでは大野屋が連帯保証すること、石狩物件は翌年近隣商業地域となりパチンコ屋の営業が可能となる見込みなので、大野屋が一年後に一億五〇〇〇万円でフォーラムから買い取りフォーラムに利益を得させる予定であることなどを説明した。

しかし、Vは、乙川から提出させたフォーラムの試算表を見ても赤字で借入金が多額であり、資産もないことから同社自体には返済能力がなく、大野屋も平和相銀から担保不足のまま多額の借り入れをしていて保証能力が極めて小さく、同年八月二六日から二七日にかけて行った石狩物件の現地調査によれば約八四五五万円の価値しかなく(担保評価額としてはこの七割)、合計二億八〇〇〇万円になる融資に対する担保としては極めて不十分であると判断し、一年後に大野屋がフォーラムから石狩物件を買い取るという話にも疑問を持った。

同月二九日ころ、平和相銀において、VはEに対し、以上の調査結果として回収が長期化する見込みであり融資すべきではないと報告し、実行しない方向で上司と再度検討してほしい旨要望した。Eも、AにV同様の報告を行い、AもN及びOに対しそれぞれ同旨の報告をしたが、両名とも、通常ならば融資すべき案件ではないことを承知しつつも、平和相銀の経営に強い指導力を持ち一致協力関係にあった被告人からの依頼である以上、融資実行はやむを得ないものと考え、それぞれAにその旨指示した。その結果、A及びEも、融資を実行せざるを得ないものと考え、ここに被告人、N、O、I、乙川、A及びEの間でフォーラムに対する不正融資の順次共謀が成立した。

右共謀に基づき、営業融資第二部及び審査部の決裁を経て、昭和五八年八月三一日、フォーラムに対し二億円の融資が実行された。担保としては大野屋を連帯保証人に徴したのみであった。

第二  罪となるべき事実

被告人は、

一  平和相銀において、Mが代表取締役社長として業務全般を統括し、Nが融資担当常務取締役として融資業務を統括し、Oが非常勤取締役として融資業務を担当し、いずれも同銀行が融資を行う場合には、同銀行で定めた融資事務取扱要領等の諸規程に従い融資先の事業、資産、信用状態、資金使途、返済計画等を十分調査した上、確実かつ安全に貸付金の回収ができ同銀行に損害を与えないよう誠実にその職務を遂行すべき責務を有していたところ、広洋及びサン・グリーンからの融資依頼に際し、M、N、O、A、C及びEと共謀の上、太平洋クラブにとっては遊休資産化していた屏風物件を時価より約二〇億円も高額に売却でき、広洋及びサン・グリーンにとっては購入価格をはるかに超える合計八八億円の融資を受けられるなど、太平洋クラブ、広洋及びサン・グリーンの利益を図る目的をもって、被告人においてはこれらに加えて、右売買について何ら実質的な仲介行為を行っていない新日興開発に売買代金の内から仲介手数料名目で一億六〇〇〇万円を取得させることにより同社の利益も図る目的をもって、M、N及びOにおいて、広洋、サン・グリーンの業況、資産、信用状態等が不良で、屏風物件の開発計画にも具体性がなく、資金使途もあいまいで、担保物件としては時価約四〇億円(ただし、平和相銀での担保評価額としては本件売買代金六〇億円を基準にして約四一億七〇〇〇万円である。)の屏風物件のみで大幅に担保不足となるなどの状況にあったから、たとえ太平洋クラブの会員権償還資金捻出の一環として融資するにしても更に確実十分な担保を提供させるなど貸付金の回収に万全の措置を講ずべき任務があったにもかかわらず、その任務に背き、貸付金の回収が困難に陥り同銀行に損害を加えるおそれがあることを知りながら、昭和五七年一一月一七日、東京都港区新橋五丁目一番二号所在の同銀行本店において、広洋及びサン・グリーンに対し、屏風物件に債権極度額合計一〇六億円の根抵当権を設定させ、広洋の債務につきF及びサン・グリーンを、サン・グリーンの債務につきG及び広洋をそれぞれ連帯保証人に徴したのみで、右物件の購入資金、開発資金、利息等として同銀行資金各四四億円、合計八八億円を貸し付け、もって、同銀行に財産上の損害を加え、

二  広洋及びサン・グリーンからの追加融資の依頼に際し、M、N、O、A及びEと共謀の上、広洋及びサン・グリーンの利益を図る目的をもって、前同様の身分、責務を有していたM、N及びOにおいて、両者が前記融資金八八億円に対する利息の支払いすらできず、追加担保の提供もなく、屏風物件の開発行為も進捗せずその実現が困難な状況にあったから、融資するにしても更に確実十分な担保を提供させるなど貸付金の回収に万全の措置を講ずべき任務があったにもかかわらず、その任務に背き、貸付金の回収が困難に陥り同銀行に損害を加えるおそれがあることを知りながら、昭和五八年一二月六日、同銀行本店において、広洋及びサン・グリーンに対し、単に前記根抵当権の債権極度額を合計一一六億円に変更させ、前記同様の連帯保証人を徴したのみで利息、開発資金等として同銀行資金各四億一〇〇〇万円、合計八億二〇〇〇万円を貸し付け、もって、同銀行に財産上の損害を加え、

三  広洋及びサン・グリーンからの追加融資要求に際し、M、N、O、F、A及びEと共謀の上、広洋及びサン・グリーンの利益を図る目的をもって、前同様の身分、責務を有していたM、N及びOにおいて、両社が従前の融資金合計九六億二〇〇〇万円に対する利息の支払いすらできず、追加担保の提供もなく、屏風物件の開発実現がますます困難な状況にあったから、融資するにしても更に確実十分な担保を提供させるなど貸付金の回収に万全の措置を講ずべき任務があったにもかかわらず、その任務に背き、貸付金の回収が困難に陥り同銀行に損害を加えるおそれがあることを知りながら、昭和六〇年六月一日、同銀行本店において、広洋及びサン・グリーンに対し、単に前記根抵当権の債権極度額を合計一四○億円に変更させ、前記同様の連帯保証人を徴したのみで利息、開発資金等として同銀行資金各一〇億円、合計二〇億円を貸し付け、もって、同銀行に財産上の損害を加え、

四  フォーラムからの融資依頼に際し、N、O、I、乙川、A及びEと共謀の上、フォーラムの利益を図る目的をもって、前同様の身分、責務を有していたN及びOにおいて、フォーラム及び大野屋の業況、資産状態が不良で、返済計画にも疑問のある状況にあったから、融資するにしても更に確実十分な担保を提供させるなど貸付金の回収に万全の措置を講ずべき任務があったにもかかわらず、その任務に背き、貸付金の回収が困難に陥り同銀行に損害を加えるおそれがあることを知りながら、昭和五八年八月三一日、同銀行本店において、フォーラムに対し、単に大野屋を連帯保証人に徴したのみで借入金の返済資金等として同銀行資金二億円を貸し付け、もって、同銀行に財産上の損害を加えたものである。

第三  証拠の標目〈省略〉

第四  争点に対する判断

弁護人ら及び被告人は、本件公訴事実を全面的に争って極めて多岐にわたる主張をするところ、それらの内、当裁判所が事実認定及び量刑上必要と認めた事項についての判断はさきに判示したとおりであるが、なお、重要と思われる点について、若干補足説明をする。

一  共犯者らの供述の信用性について

弁護人らは、検察官の立証はMら共犯者の自白に全面的に依存しているが、それらは信用できないと主張する。

一般論として、共犯者の自白には自己の責任の軽減を図って虚偽供述をする危険性があるので、その供述の信用性については慎重な検討を要するが、本件においては、共犯者であるM、N、O、A、C、Eらの被告人の判示各犯行を認めた供述は、客観的事実の裏付けを伴っていること、他の共犯者及び共犯者以外の者の供述とも大筋で一致していること、同人らの地位及び被告人との従来の関係等から殊更に被告人に不利となる供述をする事情は認められないことなどを併せ考慮すると、いずれも基本的には信用できる。

二  Mらの任務違背性について

弁護人らは、平和相銀と太平洋クラブは極めて密接な関係にあり、広洋等に対する第一回融資はその太平洋クラブの会員権償還期を乗り切るためにMらが平和相銀の利益を図る目的で行ったのであるから、同人らに任務違背性も図利加害目的もないと主張する。

しかし、いかに太平洋クラブと平和相銀が密接な関係にあり、かつ、屏風物件の売却が太平洋クラブの会員権償還資金捻出のため必要であったとしても、公共的使命を有する平和相銀としては、貸付金の確実、安全な回収を図ることが第一であり、広洋等に対する第一回融資に象徴されるような大幅な担保不足で回収困難に陥るおそれの大きい融資が許されないことは当然である。しかも、広洋等に対する第一回融資当時、判示第一の四2(二)のとおり太平洋クラブの会員権の相場価格は、サルベージ工作の効果等により次第に上昇し、昭和五七年一○月には四二〇万円から四二五万円、同年一一月には縁故会員からの預り保証金額に見あう四三〇万円から四三五万円に達してなお上昇傾向を見せていたことから、平和相銀及び太平洋クラブにおいては償還期が到来しても会員からの償還請求が殺到する事態は避けられるものと予想されていたこと、平和相銀関係者は、償還期問題について最終的にはサルベージ工作と同様に平和相銀から太平洋クラブあるいはその関連会社へ融資するか、または太平洋クラブが平和相銀の保証で他行から借り入れる等の手段で乗り切れるとの認識であったこと(〈証拠〉)、屏風物件より優良な物件ではるかに高い価格で容易に売却できると考えられていた神戸市垂水区所在の太平洋クラブ所有の土地があったが、これについては平和相銀及び太平洋クラブの首脳部の間で、将来の値上がりを見込んで売却を控える方針が決定されていたこと(〈証拠〉)、償還対策として屏風物件の売却とサルベージ工作以外には特段の償還資金捻出策を講じないまま償還問題を乗り切っていること、そして昭和五八年三月以降の現実の会員権償還の状況に照らしても、以上の状況判断は間違っていなかったことが認められる。さらに、屏風物件の時価は約四〇億円前後であったから、広洋等に対する融資は第一回目から大幅な担保不足であり、もし許認可取得によって付加価値が生じなければ融資金の回収が困難に陥るおそれが大であったこと、にもかかわらず被告人らは、許認可取得の可能性については、事前に神戸市へ直接調査、照会することなく、何ら合理的、具体的根拠のない被告人の人脈やFの属する同和団体の力に依拠するのみで、Fらの主張する開発計画にも最低限の具体性すらない状況下に融資を実行したことが認められる。以上の諸事情を総合すれば、広洋等に対する融資についてMらに任務違背及び図利加害目的がなかったとか、平和相銀の利益を図るためであったなどという主張に理由がないことは明らかである。

三  新日興開発の図利目的について

弁護人らは、W1とIの間には、札幌テレビ所有の遊休地とIの建設するゴルフ練習場について、交換する土地や金額が特定した正式の交換契約は存在しなかったとか、札幌テレビ内部で最終的に交換拒否の結論を出したのは昭和五七年一二月一五日以降であるなどと主張する。

しかし、被告人に新日興開発の利益を図る目的があったか否かを認定するに際しては、それらは必ずしも重要ではなく、むしろ広洋等に対する第一回融資以前に被告人がIに対して負い目や困惑を感じる事情があったか否かの方が問題である。

このような観点から右W1とI間の交換問題の主として客観的な経過をたどってみると、

1  昭和五六年春から夏にかけてW1とIの間で札幌テレビの遊休地の有効利用のため、Iが代替地を買収してゴルフ練習場を建設し、それと札幌テレビの遊休地とを交換する旨の話合いがあり、

2  同年八月、Iは北海道緑化計画株式会社を設立し、

3  平和相銀は、被告人の口添えで北海道緑化計画に昭和五七年三月に一億円、五月に七億八〇〇〇万円、八月に七〇〇〇万円を融資し、

4  Iは、同年三月ころ、札幌市西区発寒にゴルフ練習場用地を約六億円(ただし、札幌テレビに対しては八億円と主張していた)で購入して同年六月ころから建設工事を開始し、

5  その間の同年五月中旬ころ、W1はIに対し、札幌テレビの子会社である株式会社エス・テー・ビー開発センター代表取締役名義で同年九月三〇日を期限としてゴルフ練習場を同社及びその関連企業で取得する旨の「買付証明」と題する書面を交付し、

6  同年六月末から七月上旬ころ、W1はIに対し、Iが八億円と主張するゴルフ練習場用地が札幌テレビ側の鑑定評価額では約四億円であることなどを理由に交換はできない旨を話したが、Iはゴルフ練習場建設工事を続行し、

7  同年九月一八日、Iはゴルフ練習場をオープンし、そのころ、Cは、W1から札幌テレビ側の事情で交換が実行できなくなった旨の電話を受け、被告人に伝えたところ、被告人から「聞いている、一部返済は待ってやってくれ」と言われ(〈証拠〉)、

8  Iは、同月二七日付けの「発寒ゴルフセンター支出明細表」(総額一四億六五二五万九四九七円)を作成して札幌テレビに提出し(〈証拠〉)、

9  Vは、Iから、同年一〇月に交換が破談になったと聞き、このことを昭和五九年一二月に作成した北海道緑化計画に対する融資取扱意見書補足欄(〈証拠〉)には昭和五七年一〇月とすべきなのを誤って昭和五八年一〇月に正式破談と記載しており、(〈証拠〉)、

10  昭和五七年九月から一〇月ころ、Iが、C、V、Hらに対し、W1から一方的に交換の約束を破棄されたとして民事訴訟も辞さないほどに憤慨し、Hは被告人から「IがW1に文句を言っている、しようがない奴だ」と困惑した態度で言っているのを聞いており(〈証拠〉)、

11  同年一〇月中旬から下旬にかけて、被告人はH及びIとそれぞれ打ち合わせた結果、屏風物件の売買に何ら実質的な仲介をしていない新日興開発に太平洋クラブが得る売買代金の内から仲介手数料名目で同年一一月二五日に三〇〇〇万円、同月三〇日に三億三〇〇〇万円を支払い、その内から同年一二月二日ころ二億円をSに渡し、残り一億六〇〇〇万円を新日興開発に利得させた

という経緯が第三掲記関係各証拠によって認められる。右認定に用いたC、E、V、Hらの各供述部分は、それぞれ客観的な前後の状況とも符合し、あるいはその内容が具体的で他の関係供述とも一致しているなどから、信用性が高い。

そうすると、ゴルフ練習場がオープンして数日後に改めてW1から交換ができなくなったと言われ、平和相銀へ返済ができないのでW1にCへの電話を頼んだ、被告人からゴルフ練習場の件については何らかの穴埋めをするので我慢するようなだめられ、その後穴埋めとして新日興開発に仲介手数料名目で一億六〇〇〇万円が支払われた旨のIの証言部分(〈証拠番号略〉)、検察官に対する各供述調書謄本(〈証拠番号略〉)、〈証拠〉及び同人に対する商法違反被告事件における各供述調書謄本(〈証拠番号略〉)は、信用できる。これに反するW1及び被告人の公判供述は、W1の検察官に対する供述調書謄本(〈証拠番号略〉)とも大きく相違し、交換をめぐる客観的経緯や他の関係者の供述とも符合しない上、交換拒否についてIが不満を言わなかったとか、ゴルフ練習場の営業成績を考慮して交換の可否を検討すると言いながら、その営業成績が良好であるのにオープン以前に判明していた土地の評価額の違いを主たる理由にして昭和五七年一二月一五日以降に交換を否とする結論を出しているとするなど、不自然、不合理で信用できない。

四  広洋等に対する第二回融資の共謀成立について

弁護人らは、そもそも第二回融資についてEが被告人やOに相談した事実はなく、むしろE及びVら一部の担当者は第二回融資に際し、当初から金利を八・五パーセントとして計算された一社当たり約四億一〇〇〇万円と想定し、あらかじめ一社当たり六億円を融資する旨の貸出審議会決議を経ることによって右限度内での融資権限を取得し、第二回融資において金利を引き下げて金利以外に上乗せをした融資であることを秘し、本件捜査時点まで被告人及びOはもとより他の融資担当者に対してすら第二回融資が金利分のみの融資であったかに繕ってきた可能性さえあり、被告人が減額交渉や融資に関わったことはないと主張する。

しかし、第一の四3(二)で判示のとおり、被告人は、E及びOから減額交渉を依頼され、Qに指示してFに減額を交渉させ、減額後の融資についてもOから報告を受け実行の意向を示したことは明らかである。

確かに、Oは、本件各融資のうち第二回融資についてのみ関与を否定して、Fから当初合計一二億円の融資申込みがあってから八億二〇〇〇万円に減額された融資が実行されるまでの過程につき記憶がない旨証言し、同人に対する商法違反被告事件においても同旨の供述を行っているので、右融資へのOの関与についてはより慎重な検討を要するが、Oは、検察官に対する供述調書謄本(〈証拠番号略〉)においては、昭和五八年一一月中旬ころ、EからN、O、A、Yらに対してFの合計一二億円の融資要求の報告があり、Oにおいて被告人に減額交渉を依頼し、同年一二月初め、Fの要求が合計八億二〇〇〇万円に減額となった旨EからN、O、A、Yらに報告があった際にも、Oにおいて被告人に報告して融資実行の確認をしたという第二回融資の過程を、当時の心境や他の者の供述では明らかでない被告人とのやりとりを含め具体的に供述しており、右供述内容は以下に述べる諸事情や取調べにあたった検察官の証言(〈証拠番号略〉)に照らしても、信用性は高いと認められる。

すなわち、

1  Oの右供述内容は、Eの第七、一六回の証言及び検察官に対する供述調書謄本(〈証拠番号略〉)、Aの第四、一〇、一三回の証言及び検察官に対する供述調書謄本(〈証拠番号略〉)並びにNの検察官に対する供述調書謄本(〈証拠番号略〉)とも一致しており、

2  Fらから金利に上乗せした融資の要求があれば、Eらは直ちに上司に報告して指示を受けるのが常であり、同人らにおいて特に第二回融資に限って上司に秘したまま融資を実行する理由がないばかりか、広洋等に対する第一回融資がもともと被告人から持ち込まれた案件で、被告人の最終的な判断に基づいて実行されたという経緯、第二回融資要求の経過、金額、回収の困難性等に照らし、Eら融資事務担当者のレベル限りではFと責任のある交渉、対応をすることができなかったのに、融資実務を統括していたOに何らの相談、報告もなく、かかる融資が実行されたものとするのは極めて不自然であり、他方、OにおいてもFの要求を抑えてもらうよう被告人に依頼すること、更に最終決定の段階で被告人の意向を確認することはごく自然であり、

3  押収してある貸出審議会議決書綴(〈証拠番号略〉)中に綴られている一社当たり六億円の融資を承認する旨の議決書は、被告人の減額交渉に期待しつつも交渉の決裂を予想してとりあえず承認が求められたものであって(〈証拠〉)、Eに右限度で融資権限を与える必要性はなく、

4  V及びEは、既にFから合計一二億円の融資申込みがあった昭和五八年一一月中旬の時点において、Fに対して金利を八パーセントに下げる意向を伝えており、(〈証拠〉)、右貸出審議会議決書綴には、広洋及びサン・グリーンに対する利息を右のとおり引き下げる旨の議決書も綴られ、融資申込書とともに綴られる資金使途明細書でも利息等の内容が記載され、金利引下げの事実自体は当然上層部にも明らかになることであるのみならず、もともとFの要求が金利以外の上乗せ分に主眼をおいていたことは誰にも明白であるのに、Eらが金利のみの融資であったかに繕う必要など全くなく、

5  Q(〈証拠番号略〉)及びF(〈証拠番号略〉)は第二回融資に関して同人らの間で交渉をした記憶がない旨それぞれ証言するが、Qが検察官に対する供述調書謄本(〈証拠番号略〉)において、昭和五八年の年末が近づいてくるころ、Fから利息及び追加融資の要求があり、被告人の話を受けてFと話し合って利息分のみの融資をすることで話をつけた旨供述しており、右供述はその時期及び金額等に正確さを欠くが、かえって、故意にFや平和相銀関係者らの供述と一致させようとするような作為の感じられない内容であり、また、Fも検察官に対する供述調書謄本(〈証拠番号略〉)において昭和五八年一一月下旬ころ、Qから四億円の上積み融資は遠慮してもらいたいという依頼があり、被告人の使いで来たと思い、後々のためを考えて承知した旨供述していることなどを考慮すれば、Q及びFの前記各証言は信用できない。

以上を総合すれば、第二回融資について被告人に共謀が成立することは明らかであり、弁護人らの前記主張は採用できない。

五  広洋等に対する第三回融資の共謀成立について

弁護人らは、屏風物件の商品化を促すため平和相銀融資担当者が広洋等に対する資金協力の必要から第三回融資を行ったもので、被告人は何ら関与していないと主張する。

しかし、Fらの説明する名鉄物件を併せた開発計画はあまりにも事業規模が膨大で、かつ、粗略な内容のため実現性がなかったことから平和相銀の融資担当者らは広洋等に対する融資の対象として真剣な検討をしていなかったが(〈証拠〉)、第一の四4(二)で判示のとおり、Fらの強硬な融資要求を受けて、E、Oらが、昭和六〇年四月一九日ころには被告人に対しFへの拒否交渉を依頼し、その後もFの融資要求が強硬であったため同年五月二八日には被告人の最終判断を求めた上、被告人の意向に従って融資を実行したのであるから、被告人に共謀が成立することは明らかである。

六  フォーラムに対する融資の共謀成立について

弁護人は、フォーラムに対する融資についての被告人の関与は、あくまで融資を求める側の行為であって、被告人は、融資決定過程には一切関与していないから背任行為の共謀はなかったと主張する。

しかしながら、第一の五2(三)で判示したとおり、被告人がフォーラム及び大野屋の業況、資産状態が不良で融資金の返済が困難であることを十分認識の上、Oに対し平和相銀からフォーラムへ二億円程度の融資を受けたい旨依頼をし、乙川及びIに対し平和相銀への融資申込みを指示した行為は、被告人の平和相銀における地位をも併せ考慮すれば、フォーラムに対する融資がN及びOの任務違背行為になり、平和相銀に損害を加えることを知しつしながら融資を申し込んだと認められるから、被告人にOらの背任行為を利用して自らの意思を実現せしめたものとして共謀が成立することは明らかである。

第五  法令の適用

被告人の罪となるべき事実一ないし四の各所為は、いずれも刑法六五条一項、六〇条、商法四八六条一項に該当するが、被告人には同項所定の身分がないのでいずれも刑法六五条二項により同法二四七条、罰金等臨時措置法三条一項一号の刑を科することとし、各所定刑中いずれも懲役刑を選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により犯情の最も重い判示一の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役三年六月に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中二〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

第六  量刑の理由

一  本件は、被告人を含む平和相銀の最高幹部らによる総額一一八億二〇〇〇万円という巨額の乱脈融資事件であるところ、被告人は一連の犯行において主導的役割を果たしている上、その融資には被告人の個人的利害に絡む意図が潜在しており、被告人の刑責は誠に重大である。

二  まず、その犯行態様を見るに、

1  被告人は、本件当時、平和相銀の監査役であり、かつ、顧問弁護士であったから、本来、法律及び同銀行内の諸規程を遵守し、融資金の安全、確実な回収という融資の基本原則に反した放漫なあるいは情実による融資が行われないよう厳重に監視すべき立場にあったものである。しかるに、被告人は、本件各融資に際し、融資事務担当者らがいずれも回収に不安があり、または、回収不能に陥る危険があるとして消極ないし反対意見を表明していることを十分に認識しながら、M、N及びOが平和相銀の難問処理について被告人の手腕と指導力に依存していた状況のもとで、あえて同人らに対し融資の実行を指示、依頼したものである。

殊に、被告人が、自ら率先して屏風物件の売買契約を平和相銀から全面的融資を付けるという条件でまとめておきながら、最大の関心事である屏風物件の宅地開発の許認可取得について、その可能性を神戸市に直接調査、照会するという当然になすべき手段を執らせることもなく、かえって人脈やFの属する団体の圧力を強調して大幅に担保不足のまま第一回融資を積極的に推進させたことは、堅実と信用をモットーとすべき銀行首脳として、また、正義の実現を使命とする弁護士として、その社会的責任と倫理に反した邪道というべき行為であった。しかも、その後においても許認可取得や融資金の回収に向けて特段の努力をした形跡が認められないのは無責任というほかはない。

2  また、本件各不正融資は、K1時代からの平和相銀を私物化していた経営姿勢と放漫な融資体質の延長線上に行われたものであるが、K1亡き後、職制上は監査役とはいえ、Mらと共に最高幹部として平和相銀を実質的に経営する立場にあった被告人自身も、大蔵検査、日銀考査に備えて不正融資の実態を隠ぺいするため関係書類を改ざん、ねつ造することを容認し、その作業に従事した行員に支払う残業手当を一時用立てるなど、経営姿勢及び融資の厳正化に対する熱意に欠けていたほか、自己の人脈、手腕、指導力等について平和相銀内で高い信頼と評価を得ていたことによる被告人のおごりがフォーラムへの融資依頼などに顕著に見受けられるのである。

3  さらに、被告人が広洋等に対する第一回不正融資を進めた発端は、太平洋クラブの会員権償還資金捻出のためではあったが、被告人は、その機会に、当時、実兄で札幌テレビの副社長であったW1とI間に生じていた札幌テレビの遊休地とIの建設したゴルフ練習場の交換不調をめぐるトラブルを沈静化させるため、屏風物件の売買代金の中からIの経営する新日興開発に一億六〇〇〇万円を取得させてその利益を図っており、また、フォーラムに対する融資は、被告人がフォーラムの運営資金に行き詰まり、上野ビスタから借り入れた金を大野屋に手形割引資金として貸し付けて利ざやを得ようとして失敗し、上野ビスタへの返済資金に窮して融資を依頼したという事情があり、いずれも被告人の個人的利害による意図が色濃く認められるものであって、厳しい非難を免れない。

三  そして、本件各犯行の結果を見るに、不正融資した合計一一八億二〇〇〇万円の大半が今なお返済されないまま損害として残存しているのみならず、本件が公共性の高い金融機関の最高幹部らによる巨額の不正融資事犯として社会の耳目を集め、平和相銀の預金者、行員、監督官庁等に大きな衝撃を与え、ひいては一般大衆の相互銀行に対する信用をも害するなど、その各方面に与えた影響には深刻なものがあった。

四  従って、被告人がその優れた才能と指導力によって平和相銀の自主再建に努力してきたこと、当初から専ら私利私欲を図って本件各犯行に及んだものではなかったこと、平和相銀では最高責任者たる社長以下幹部らが自らの職責を全うすることなく安易に難問の処理を被告人に依存、一任する状況にあったこと、広洋等への融資については、昭和六二年一一月に至って広洋側が四〇億円を返済し、フォーラムへの融資については、同年四月までにフォーラム及び大野が全額返済して本件被害の一部が回復していること、本件により被告人が弁護士登録を取り消し、その他の役職も辞任していることなど、被告人に有利な諸事情を全て斟酌しても、主文の刑に処するのが相当であると判断した。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 細田啓介 裁判長裁判官 米澤敏雄及び裁判官 井口 修は、転補のため署名押印することができない。裁判官 細田啓介)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例